坊主の話は滅多に聞けないから結構タメになる件

先週、母方の叔父が亡くなった。72歳。

かなりかわいがってもらっていた事もあり、ド平日ではあったが、力強く山口県まで行って葬儀に参列した。

都会の葬式では、坊主は読経が終わったらさっさと帰るイメージがあるが、今回は家族葬的にこじんまりとしていた事、及び叔父が坊主と仲良くしていた事もあり、かなりたくさん坊主の話を聞く事が出来た。坊主同伴のもとで、自宅で精進落としもやったし。

その中で、ほほぉ、と思う事があったのでちょっと書いてみる。その道に詳しい方、間違っていたらご指摘頂きたいところだ。

今回、叔父は72歳で亡くなったので、一般的には早逝と言っても良いだろう。平均寿命よりかなり手前、と言う点においては。

この点について坊主は、

叔父さんは短命だったと思うだろうが、30歳で亡くなっても短命、100歳で亡くなっても短命だ。人の寿命はわからん。人の人生は拙くして愚かだ。

と言っていた。

イマイチわからなかったので、どう言う事か聞いてみた。特に後半の部分。

この『拙くして愚か』と言うのは人から見た評価ではなく、本人目線の話らしい。自覚の問題やね、と言っていた。

坊主が言うには、

人間と言うのは、生まれてから死ぬまで、世の中から与えられた使命を果たそうと努力したり、世の中に役立とうと思ってみな懸命に生きている。程度の差はあっても、最初から最後まで懸命に生きているので、本来であれば終わりはないはず。つまり、30歳で亡くなると『まだやり残した事がある』になるのは当たり前だけど、もし100歳まで生きていたとしても、『もう満足』ではなく、『まだやり残した事がある』はずであり、やるべき事を全てやり切って死ねる人などいないのだから、本人はみな自分の人生は拙くして愚かだった、と感じるはずだ。その点において、何を以って寿命だと判断するかは本当に難しい。ただ、懸命に生きて来たのは間違いないのだから、残された人は、『ご苦労様』と送り出してあげよう。

との事だった。

聞いた時は、なるほど、と思ったけど、いざ書いてみるとわかる様でわからない話でもある。

その他、なんで白い花を供えるか知っとるか?とか色々面白い話をしてくれたのだが、頭もハゲにしてないし、読経の時も全く諳んじておらず堂々と経本を読んでるし、えらく俗物っぽい感じがする坊主で、実に良い坊主であった。

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たまにこう言った話を聞くと、結構勉強になるし、仏門に興味も湧いて来る。

と言う事で、早速こんな本を読んでいる。


仏教じゃねーだろ!とは自分でも思うのだが、まぁ自分は無宗教だし、心の中に何か宗教を、って意味では仏教もヒンドゥー教も神道も変わらんだろう、って事で日本の神様のお勉強。

当然、冒頭から知らん事ばっかりなのだが、日本人としてこれは知っておかないといかんな、的な点は多い気がする。

なお、無宗教、とは書いたが、当方が心の拠り所とすると言う点において心の中にある宗教は、

練習中に気絶した山中湖よりもエグいモンはない

である。

仕事でどんなに怒られても気絶する事はないもんね。最悪、相手を殴れば終わるし。会社人生も終わるけど。

って事で、合掌。上の娘は船に乗せて貰えたけど、下の娘はその機会がなかった事が残念。

勇ましいな、オイ。

〜今日の教訓〜

去年の9月、一緒にバーベキューしといて良かった。

いつが最後になるかわからんのだよ。

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